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大和 (戦艦) : ミニ英和和英辞書
大和 (戦艦)[やまと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大和 : [やまと]
 【名詞】 1. ancient Japan 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦艦 : [せんかん]
 【名詞】 1. battleship 
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

大和 (戦艦) : ウィキペディア日本語版
大和 (戦艦)[やまと]

大和(やまと/ヤマト)〔#内令昭和15年7月(2)p.2『達第百四十八號 呉海軍工廠ニ於テ建造中ノ戦艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十五年七月二十五日 海軍大臣吉田善吾 戦艦 大和(ヤマト)』〕は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦大和型戦艦の一番艦。正式な呼称は“軍艦 大和”。大和の艦名は奈良県旧国名大和国に由来するが、日本の歴史的原点としての代名詞ともなっている『大和』の名を冠されたことに本艦にかかった期待の度合いが見て取れる〔#スパー運命32頁〕。当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施し、建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法も成功を納めた。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少ない。
太平洋戦争大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役し〔「昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)」p.30「一戦隊に大和を加ふ」〕、1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となった〔#秋元記録157頁〕。この任は司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵トラック島に進出する1943年(昭和18年)2月まで継続した。1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦においてアメリカ軍機動部隊の猛攻撃を受け坊ノ岬沖で撃沈された。
== 沿革 ==

=== 建造 ===

ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1934年(昭和9年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された〔#内藤レクイエム127頁〕。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、飛行将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた〔中田整一編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社84-85頁〕。
1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると〔#内藤レクイエム128-129頁〕、5年後の1942年(昭和17年)6月15日〔#庭田、建艦秘話51-52頁『(4)工程の繰上げと公試について』〕を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市呉海軍工廠造船船渠で起工〔#S17.12.31艦船要目公表範囲p.2『大和|戦艦|(性能値略)|呉工廠|昭和12-11-4|昭和15-8-8|昭和16-12-16|(兵装略)』〕。長門型戦艦1番艦長門天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて〔#造船士官の回想 上197頁〕、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された〔#秋元記録25頁。#大和開発物語196頁では302-42-10mとしている。#庭田、建艦秘話46頁では長335-43〕。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった〔#大和開発物語102頁〕。また艦の性能値も意図的に小さく登録された〔#S17.12.31艦船要目公表範囲p.2『艦名 大和|艦種 戦艦|長(米)235.00|幅(米)31.50|喫水(米)9.15|排水量(基準)(噸)42.000|速力(節)25.0|(短艇数)14|(日時略)|主要兵装/大砲40㎝…9、15.5㎝…12、12.7㎝高角…12(以下略)』〕。
機密保持は厳重を極めた〔#庭田、建艦秘話44-45頁『(1)工事の機密保持について』〕。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた〔#栗原証言13頁、#大和開発物語121頁〕。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた〔#大和開発物語122-124頁〕。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた〔#吉田 大和と武蔵131-133頁〕。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった〔#世界史・山本五十六41頁〕。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという〔#世界史・山本五十六42頁〕。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している〔#大和開発物語206-207頁「秘密主義の功罪をさぐる」〕。
1940年(昭和15年)7月25日、海軍が艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、昭和天皇は『大和』を選択した〔昭和天皇実録 昭和15年篇〕〔「産経新聞」2014年9月10日号【昭和天皇実録公表】 〕。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた〔海軍省発行『海軍制度沿革』第15篇「艦船」、第4章「進水 命名 本籍」、第2節「命名」の序文より。〕。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した〔。
同年8月8日進水〔#庭田、建艦秘話50頁〕〔(当日の呉所在艦艇は『○艦船所在○八月八日午前十時』を参照)〕。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた〔。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった〔#大和開発物語128頁、#原 大和全貌137頁〕。昭和天皇海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作する〔。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄)臨席のもとで進水式は行われた〔。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ〔#大和開発物語128-129頁〕。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮千代田城二重橋を描いた有田焼風鈴を500個制作、関係者のみに配布した〔#庭田、建艦秘話51頁〕。
大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた〔#庭田、建艦秘話54頁『2.第百十一号艦について』〕。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令〔。
1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖で荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノットを記録〔。続いて30日に全力公試27.46ノットを記録〔#大和と日本人85頁〕、11月25日には山本五十六連合艦隊司令部が視察に訪れた〔#戦藻録(九版)21頁〕。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施〔。真珠湾攻撃の前日だった。この真珠湾攻撃には、第三号艦(翔鶴)、第四号艦(瑞鶴)が参加している。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、日向、伊勢)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う〔#艦と人127頁〕。呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した〔。同日附で第一戦隊に編入された〔#大和と日本人86頁、#戦藻録(九版)50頁〕。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された〔#内令昭和16年12月(3)pp.4-5『内令第千六百七十二號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年十二月十六日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、戰艦金剛型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |大和型|大和| 』〕。大和の1/500模型は昭和天皇天覧ののち、海軍艦政本部の金庫に保管されたという〔#内藤レクイエム130頁〕。
大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最精鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大和 (戦艦)」の詳細全文を読む




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